HOME | 宮山神社(八王社・雨宮)とは

宮山(みややま)について

宮山はもとは荒木村とよばれていた。江戸時代のはじめ頃の村名と、その石高を書いた肥後国郷帳(寛永11年・1634年)には荒木村の名は見当らず、また宮山の名もみえていない。それが宮山とよばれるようになつた理由については明らかでないが、享保14〜5年頃(1729〜1730年)布田村にあつた八王社 (今の宮山神社)を移転したというから、恐らくその名は、神社にちなんでよばれるようになつたのではないかと考えられる。すでに宝暦7〜8年(1757〜1758年)頃の調査と思われる記録には宮山村の名がみえ、432石9斗1升3合1勺の石高が示されている。
村の範囲は時代によって幾分変更があつたとみえ、文政元年(1818年)の肥後国郷帳には現在のように日向・小牧・出ノロなどの小村を含んでいた。
明治7年(1874年)大小区制がしかれたさいには第四大区九小区宮山、更に同9年熊本県となるや宮山村となり、明治22年町村制施行とともに山西村大字宮山となり、今日にいたっている。

宮山神社について

八王社はちおうしゃ

正勝吾勝々速日天忍穂耳尊外七柱
(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)
(昭和34年刊行の山西村誌の記載)

 
《 祭神 》
  • 多紀理姫命(たぎりひめのみこと)
  • 市寸島姫命(いちきしまひめのみこと)
  • 多岐津姫命(たぎつひめのみこと)

  【 以上、宗像三女神 】

  • 忍穂耳命(おしほみみのみこと)
  • 天之穂日命(あめのほひのみこと)
  • 天津日子根命(あまつひこねのみこと)
  • 活津日子根命(いくつひこねのみこと)
  • 熊野久須比命(くまぬくすひのみこと)
 

雨宮あまみや

速瓶玉命の妃神(はやみかたまのみこと)

    • (註) 神功皇后三韓征伐の時、かまち媛の御子阿蘇惟人命も出征され、お手柄があったという。その時、字土の郡浦(こうのうら)にがい旋され、この地に長くお留りになって、警備の大任にあたられた。その御霊を奉祀したのが郡浦神社であるこの宮が雨宮の本宮で、宮山村に勧請したのは恐らく数百年前のことであろう。

 
八王社殿の由来
最初、布田部落道覚寺坂の上に宮床があった。享保20年(1735年)に宮山部落の東部(現在は田地となっている)に社殿を遷してあったのを、以前から祀ってあった雨宮と同境内に再び遷祀したものでのる。昔より氏子の崇敬最も深く、今より数十年前までは、祭礼の日は、神楽奉納の祭典があって、境内は露店の宮市でにぎわしかった。今もなお神楽奉納は続いている。

宮山神社について

八王社はちおうしゃ

正勝吾勝々速日天忍穂耳尊外七柱(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)
(昭和34年刊行の山西村誌の記載)

 
《 祭神 》
  • 多紀理姫命(たぎりひめのみこと)
  • 市寸島姫命(いちきしまひめのみこと)
  • 多岐津姫命(たぎつひめのみこと)

  【 以上、宗像三女神 】

  • 忍穂耳命(おしほみみのみこと)
  • 天之穂日命(あめのほひのみこと)
  • 天津日子根命(あまつひこねのみこと)
  • 活津日子根命(いくつひこねのみこと)
  • 熊野久須比命(くまぬくすひのみこと)
 

雨宮あまみや

速瓶玉命の妃神はやみかたまのみこと

    • (註) 神功皇后三韓征伐の時、かまち媛の御子阿蘇惟人命も出征され、お手柄があったという。その時、字土の郡浦(こうのうら)にがい旋され、この地に長くお留りになって、警備の大任にあたられた。その御霊を奉祀したのが郡浦神社であるこの宮が雨宮の本宮で、宮山村に勧請したのは恐らく数百年前のことであろう。

 
 
八王社殿の由来
最初、布田部落道覚寺坂の上に宮床があった。享保20年(1735年)に宮山部落の東部(現在は田地となっている)に社殿を遷してあったのを、以前から祀ってあった雨宮と同境内に再び遷祀したものでのる。昔より氏子の崇敬最も深く、今より数十年前までは、祭礼の日は、神楽奉納の祭典があって、境内は露店の宮市でにぎわしかった。今もなお神楽奉納は続いている。

宮山神社:文化財の概要

 八王社は、享保20年(1735)に布田地区から現在の宮山地区に移されたという伝承があったが、新たに発見された棟札(写真)によりその伝承が裏付けられた。
 細部の意匠は比較的単純明快な中で、手挟み(写真③)が籠彫になるなどの先進性が垣間見え、県内の神社建築の発展過程を知るうえで大変貴重な例として位置づけられる。
 また当時馬場としても活用された杉並木の長い参道や、江戸期の石碑や灯篭、照葉樹の巨木群に囲まれた境内は、江戸期の神社構成と歴史を今に伝えており、建物とともに貴重な遺産である。
 
平成31年3月西原村指定有形文化財

発見された棟札「干時享保二十卯歳」

本殿 懸魚(げぎょ)

軒を支える手挟みの部材。部材を彫り抜き透かす技法を籠(かご)彫と呼ぶ。江戸後期頃に一般的にみられるようになる。

本殿 海老虹梁と手挟(でばさみ)

写真左から①棟札 ②本殿 懸魚(げぎょ) ③手挟み ④本殿 海老虹梁と手挟

発見された棟札「干時享保二十卯歳」

①棟札

本殿 懸魚(げぎょ)

②本殿 懸魚(げぎょ)

軒を支える手挟みの部材。部材を彫り抜き透かす技法を籠(かご)彫と呼ぶ。江戸後期頃に一般的にみられるようになる。

③手挟み

本殿 海老虹梁と手挟(でばさみ)

④本殿 海老虹梁と手挟

宮山神社概要

法 人 名 宮 山 神 社 所 在 地 熊本県阿蘇郡西原村大字宮山439番地
法 人 格  宗 教 法 人  設立許可年月日  昭和27年12月25日
 代表者氏名及び住所 代表役員 緒方宏信  熊本県阿蘇郡西原村大字河原860番地  

宮山神社概要

法 人 名 宮 山 神 社
法 人 格  宗 教 法 人
所 在 地 熊本県阿蘇郡西原村大字宮山439番地
設立許可年月日 昭和27年12月25日
 代表者氏名及び住所 代表役員 緒方宏信
熊本県阿蘇郡西原村大字河原860番地